最後までいなくても大丈夫
「もう終わりにしたい」と言えなかった私
「もう終わりにしたいな」
そう思っているのに、なかなか言い出せない。
そのまま話を続けて、帰ったあとにどっと疲れる。そんな経験はありませんか。
私は、それが日常でした。対面の集まりでも、オンラインでも、一対一の通話でも同じです。頭に浮かんでいたのは、いつもこの考えでした。
「ここで途中退席したら、相手がガッカリするんじゃないか」
だから、疲れていても話を続ける。本当は休みたいのに、笑顔で相づちを打つ。相手が楽しんでいるかどうかを、必死で確認し続ける。
今ならはっきり分かります。私は「やさしかった」のではなく、自分の命(時間)を差し出して、その場に居続けていただけでした。
気づかないうちに、背負っていたもの
えさかで過ごす中で、少しずつ気づいたことがあります。それは、相手の機嫌を保つことは、本来は相手の課題だということです。でも私は、それを自分の役目だと思い込み、人の感情の管理まで引き受けていました。
複数人の集まりを途中退席できなかったのも、同じ構造です。「自分が帰ったあと、もっと盛り上がっていたらどうしよう」それは寂しさというよりも、自分がいない時間に、世界が進んでしまうことへの不安でした。
途中で帰れないと人と会うのがつらくなる
途中退席できないまま過ごしていると、人と会うこと自体が、少しずつ億劫になっていきます。なぜなら、人と会うことが「自分の時間と命を差し出すこと」になっていたからです。
このままでは、確実にすり減る。
そう思って、私は少しずつ、途中退席の練習を始めました。
帰っても何も壊れなかった
すると、思っていたことは起きませんでした。途中で帰っても関係は壊れない。相手の機嫌も、ほとんど変わらない。
「全部に立ち会わなくても、私は消えなかった」
その体験を重ねる中で、高木さんの「時間の使い方は、命の使い方だ」という言葉が少しずつ腑に落ちてきました。
自分の時間を自分に戻す
途中退席するというのは、自分の命(時間)を、相手に預け続けるのをやめることでした。
それはわがままではなく、自分の人生の主導権を、そっと取り戻す選択だったのだと思います。
無理をしなくなり、ちゃんと休める。自分の時間を、自分の人生のために使えるようになったとき、時間は「消費するもの」から「生きるもの」に変わっていきました。
途中退席できるようになった今、私はようやく、自分の命を自分のものとして使い始めたんだと感じています。